「愛される喜び」よりも「愛する喜び」を知ることこそ幸せな結婚生活を送れる

今回は、「あなたが結婚する目的はなんですか?」という部分に焦点を当ててお伝えしていいきます。

恋愛は、「落ちる」「続ける」「変えていく」という、3つの違う能力の組み合わせで成り立っているのです。その能力がない限りあなたは自分が理想としている結婚生活を送ることはできないでしょう。

「相手が愛してくれたら、自分も愛してあげる」は、すでに愛ではありません。「愛される喜び」よりも「愛する喜び」を知ることこそ幸せな結婚生活を送ることができます。

そもそもあなたが思う「結婚」とはなんでしょうか?本記事を通して「結婚」の基本的な結婚観の部分から、「あなたが結婚する目的はなんですか?」と、自分に問いながら本記事を読んでいただければと思います。

そもそも、「結婚」ってなんだろう?

あなたはどうして結婚したいのでしょうか?あなたが結婚を目指す目的は、一体なんですか?「はじめに結婚ありき」という考え方に問題があります。結婚は、愛し合って2人が選択するオプションの1人であり、それ自体を目的とするものではありません。

結婚の前に、2人が出会い、恋に落ちて、愛を育むといったプロセスが必要です。そのプロセスの中、自然な流れの中で、「結婚」という選択が生まれてくるのです。

最初から結婚を目的にお付き合いすることが悪いわけではありませんが、本当に結婚の真の意味を理解した上で結婚を目指しているのかを、よくよく確認する必要があるでしょう。

恋愛とは多くき分けて「恋」と「愛」

恋愛とは多くき分けて「恋」と「愛」という、2つの違うエネルギーによって成り立っています。「恋」は情熱的で厳しく、エゴの外向きのエネルギーです。一方「愛」は普遍的で穏やかな、エヴァ的な全てを包み込むような内向きのエネルギーです。

この2つの全く性質の違うエネルギーが組み合わさって、恋愛が成り立っているということに気付くことが大切な視点です。それゆえ、恋愛のプロセスに応じて、お互いに求められる能力が違って来るのも当然と言えば、当然です。

大別すると、恋愛は、「落ちる」「続ける」「変えていく」という、3つの違う能力の組み合わせで成り立っているのです。そして、その3つの能力のバランスこそ、結婚生活を続けていく上において、最も重要な能力に他なりません。

恋に落ちる能力

まず最初の「落ちる」とは、文字通り「恋に落ちる」能力のことです。本当の恋は、自分の意志で「する」ものではなく、自分の意志とは関係なく、「落ちる」ものです。

もちろん、日頃から「恋に落ちる」ための準備をしておくことは必要ですが、それでもこればかりは相手のあることなので、自分1人の力ではどうしようもない部分がわかります。

上手に恋に「落ちる」ためには、まずは自らを愛で満たすことが大前提で、その上に、表現力や行動力などの実践する力が必要になってきます。

恋を続ける能力

次の「続ける」とは、「恋を続ける」ための能力です。恋に「落ちる」能力と、恋を「続ける」能力は、また別物です。恋に「落ちる」能力は、現実的な経済力や肉体的な健康度、仕事や趣味嗜好に関する制約、物理的な時間や距離、

困難にも屈しない意志力などがバランスよく要求される、現実的でシビアな能力になります。

恋を愛に変えていく能力

「変えていく」とは、「恋を愛に変えていく」 能力のことです。これは、相手の全てを受け入れていく能力のことであり、

結婚生活を続けていく上で、最も必要とされる能力だといえます。具体的には言葉だけではなく、深いコミュニケーション能力を磨いていくことが要求されることのなるでしょう。

この3つの能力をそれぞれの時期や状況に合わせてバランスよく使い分け、「恋」から「愛」に、自然にスムーズに移行していく過程が、恋愛から結婚に移行するプロセスだと言えるでしょう。

幸せな結婚生活を継続しているカップルは「人生の達人」

恋愛を始めるためには、自らを愛で満たし、自らの感性を研ぎ澄ませる能力が必要とされ、恋愛関係やお付き合いを継続させるためには、お金や時間、体力、意志力といった現実的な対応能力が求められることになり、

さらに恋愛関係を深めて、結婚に移行していくためには、お互いの全てを受け入れることのできる、より深いコミュニケーション能力が必要とされることになるのです。

結婚生活はお互いの人格を磨くための修行の場

要するに恋愛〜結婚に至るこのプロセスを通じて、人は全人格的な能力が磨かれることになるのであり、それゆえ、素晴らしい恋愛を経験し、より良いパートナーシップを築き、幸せな結婚生活を継続しているカップルは「人生の達人」であり、ある意味、素晴らしい人格者であると言っても過言ではないのです。

結婚の真の目的、それは、「人生の達人」を目指すことであり、結婚生活はお互いの人格を磨くための修行の場だと言えるかもしれません。こうしたことを理解した上で、結婚という「魂の修行」を目指す覚悟をあらためて見つめ直してみましょう。

「永遠の愛の誓い」こそ、「無限の執着」のはじまり

最近は神前結婚が見直されてきているようですが、まだまだチャペルウェディングに対する女性の憧れは強いものがあるようです。残念ながら、この世に「永遠の愛」など存在しません。命で永遠でないのに、肉体をもった身で、永遠を誓うことが矛盾しています。

私たちにできるのは、「生きている限り、この人を愛し続ける」と決めることだけです。「浮気もしない」とか、「離婚しない」とかを誓うことが、「永遠の愛」を誓うことではありません。

真実の愛に「永遠」という時間の保証を求めることに無理があります。人を愛するということは、いまこの瞬間にしかできません。過去でも、未来でもなく、愛するのは、今この時にかできないのです。未来の愛を誓うのは、今の愛の自信が持てない言い訳に過ぎません。

「真実の愛」に誓いなど必要ない

「真実の愛」に誓いなど必要がありません。誰かに誓う必要などありません。今ここで、自分自身に宣言し、自分自身が深く「覚悟」すれば、それでいいのです。「相手が愛してくれたら、自分も愛してあげる」は、すでに愛ではありません。それは単なる「取引・契約」です。

神様の前でお互いの「永遠の愛」を確認しようとする行為は、相手との契約を交わすことに他なりません。ここに現在の結婚制度の限界があります。現在の結婚制度の多くは単なる取引であり、お互いに利害が一致したお相手と交わす契約書にサインするようなイベントになってしまっています。

結婚がギブアンドテイクの契約である限り、この「結婚契約書」にサインした途端にお互いが自分だけは損したくないという意識が働きます。

ある意味、自分が提供したサービスに対して、それ以上の報酬や満足度が得られないと、すぐに返品(離婚)という事態に陥ってしまうのは、現代の結婚を一種の「取引・契約」と考えれば、当然の成り行きだと言えるかもしれません。

結婚相手に「永遠の愛」など求めないこと

そもそも、あなたは「永遠の愛」を誓えますか?本当にその人のことだけを愛し続けると約束することはできるのでしょうか?自分自身が「永遠の愛」を誓うことができないのに、相手にだけは「永遠の愛」を誓わせ、保証を求めよとすることに無理があります。

それは「自分だけは損をしたくない」「自分さえ良ければいい」という「無限の執着」を宣言しているのに、相手から「永遠の愛」を約束させようとすることが、どれほど傲慢な行為かは誰でも予想することができるでしょう。

そしてそんなバランスが悪い「取引・契約」が成立するはずはないのです。結婚相手に「永遠の愛」など求めないことです。それはあなたのエゴによる執着に他なりません。ですから、「永遠の愛」を誓った途端、苦しくなるのです。

「永遠の愛」を誓うことよりもまずは今、目の前に愛する相手がいるということが、どれだけ奇跡的で、ありがたいことなかは、愛する人を失った経験のある人の話を聞けば、自らの傲慢さを思い知らされることになるでしょう。

「愛される喜び」よりも「愛する喜び」を知ることこそ、今ここで、あなたが「真実の愛」に満たされる唯一の方法に他なりません。